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小田中直樹 『日本の個人主義』 (ちくま新書、2006年)
現代を「自律(≒自己責任?)による経済成長の時代」だとした上で、丸山眞男に代表される戦後啓蒙派が揃って称揚した「自律」について、大塚久雄の考えを中心にあらゆる分野の研究成果を検討しながら、改めて一歩一歩丁寧に考え直している本。
その検討のプロセスは、良く言えば丁寧で誠実、悪く言えば優等生的で退屈。
具体的には、例えば、前提となる「自律の有無」に関してはポストモダンと認知科学を、自律の方法の一つたる「他者による啓蒙」に関しては反パターナリズムや民衆文化論などとメタ認知論を、自律の先にあるかもしれない「社会的関心」に関してはネオリベや共同体論とゲーム理論や経済学を、それぞれ(後者の主張に好意的に)検討している。
こういった検討のプロセスをひたすら中庸に乗り越えた先に著者が出した結論は次のようなものである。
「 個人の自律とは、懐疑精神とコミュニケーション能力を兼ねそなえ、そのうえで、「自ら立てた規範に従い、自らの力で行動すること」である 」(p180)
プロセスと同様、優等生的で当たり前の結論ではある。
しかし、個人的には、戦後啓蒙派の主張は現代でも結構有効だし、目指すべき理念型だと思っているから、戦後啓蒙派を取り上げて改めて「自律」を考えるというこの本での著者の試みには非常に賛同する。
がしかし、著者は前の方のページで次のように言っている。
「 個人はすべからく自律すべきである、といった発言は、一見かっこうよくみえるし、勇ましいし、正論であることが多い。しかし、実際は、こういった〈べき論〉は空虚な言説になりがちだし、せいぜいのところスローガンとして機能するにすぎない。だいたいにおいて〈かくあるべし〉なんて文言は、いくらでも、どんなかたちでも、だれであっても、発しうるたぐいのものだ。大切なのは、無理のないメカニズムを具体的にさししめすことである。 」(p78)
著者自身で設定した課題に著者が出した結論が応えているかは、極めて怪しい。
なんせ、著者が結論を導くために検討したのは、認知科学・脳科学以外ほとんどが“思想”(的な研究)なのだから。
そんなわけで、自分のような、“戦後啓蒙的な自律”という目指すべき理念型を支持する人間が一番知りたい(だろうと思われる)、「それが果たして可能なのか?」という急所に対して応答する知見はほとんど得られなかった。残念。
〈前のブログでのコメント〉
- その自律した個人の定義だと大学を卒業できないおそれが高いのでは!?笑
- commented by やっさん
- posted at 2006/06/10 14:20
まったくです。というか、「自律」していたら、大学卒業どころか、野垂れ死にするしかない気がします(笑)
ただ、著者はこういう反論に対しては、「自由からの逃走」とか「長いものに巻かれよ」とかでさえも、自律的に選択した上で行動していると言うと思われます。
もちろん、そうなると、「自律しないこと」が絶対に不可能であって、著者は何も言っていないことになるわけですが・・・。- commented by Stud.◆2FSkeT6g
- posted at 2006/06/10 15:36