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・ダニエル・ベル 『資本主義の文化的矛盾(中)』
(林雄二郎訳/講談社学術文庫、1976年)
・野田秀樹 「ロープ」
(『新潮』2007年1月号、所収)
・フランシス・F・コッポラ監督 『地獄の黙示録〔特別完全版〕』
(特別完全版:2002年、オリジナル版:1979年)
(・立花隆 『解読「地獄の黙示録」』)
(文春文庫、2004年)
ちょっと前の3連休(2月10~12日)で読んだり観たりした諸作品が、偶然にもほぼ同じ問題を扱っていた。から、そのことについて書こうと思って書き始めたら、三分の二くらいで止まってしまい、それを今回、何とか最後まで書き終えた。
諸作品とは、ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾(中)』、映画(DVD)『地獄の黙示録〔特別完全版〕』、立花隆『解読「地獄の黙示録」』、野田秀樹「ロープ」(戯曲)である。(「ロープ」以外は初読・初見ではない。「ロープ」の感想記事。また、「ロープ」の舞台は観ていない。)
共通する問題とは、「人間の根源的欲望、あるいは反理性主義、の行きつく先」といった問題である。
ダニエル・ベルは、1960年代の文化を念頭に置いて、「感情の時代」における文化の統一性の解体(≒社会の解体)を社会学的に論じている。そして、「感情の時代」の文化・芸術活動を象徴的に表す作品をいろいろ列挙している。
一例を挙げる。個々の感情そのままを平等に尊重することで、「芸術と文化の所在地は、個々の作品から、芸術家の個性へと移動」(p84)する。そうした芸術においては、作品そのものよりも、表現したい感情をもった人間が作品を創り出す「過程」や「行動」こそが、個性的で何ものにも還元され得ないものとして重要になる。行動派画家、プロセス・アート、「リビング・シアター」、脚本や何者かを演じることを拒否する演劇などである。
このような文化・芸術では、文化・芸術を「高級なもの」ではなくし、誰もが参加可能なものへと変える(「天才の民主化」)。しかし、その代わりに、文化・芸術というカテゴリーそのものをも解体してしまう。
そして、この、個人の感情すべてをそのままで尊重するという行き方は、舞台の上で生きている動物を殺したり、殺人や強姦だけを「正直な世界」と見たりするような「文化・芸術」へと至る。
人間の感情(欲望)を極限まで解き放つと破壊衝動や性衝動といった人間の凶暴性・残酷性があらわになる。
この、感情の優位を信奉し、感情を際限なく解放することで至る、人間の凶暴さや残酷さ(への欲望)が戦争を引き起こす真犯人であるということを隠喩的・冷笑的に表現しているのが、野田秀樹の戯曲「ロープ」である。
野田秀樹は、普通の人々が持っている凶暴さへの欲望が戦争を作り出しているという構図を、リング上であれば流血にさえ盛り上がるプロレス(の観客)に擬して描いている。
「覆面(人間の抽象化:heをsomeoneに)」や「実況(善悪を判断してくれる人)」や「ロープ(投げられると必ず敵の前に戻っていく八百長的装置)」といった舞台装置は、見世物としてのプロレス(戦争)を楽しく(残酷に)するのに効果を発揮している。
そして、こういう戦争製造メカニズムに対して、実際にあったベトナム戦争の犠牲者の具体的な名前を出し(覆面を剥ぎ取り)つつ、その惨状の事実をありのまま冷静に実況することで、人間が根源的欲望から脱し、理性的な判断(ロープに投げられても弾かれずに踏み止まること)ができるように促している。
束縛や禁忌からの解放によってあらわになった人間の根源的欲望が戦争を引き起こしたとしているのが野田秀樹なら、フランシス・コッポラは、精神を奥深く極限まで追い詰め(なければならない状況に遭遇す)ることであらわになる人間の根源的欲望が戦争を引き起こしたとしている。
フランシス・コッポラによる映画『地獄の黙示録』は、戦場で抑制を失い、自己神格化し原始的本能に従って行動する大佐の“狂気”に、直接描かれるベトナム戦争に留まらない全ての戦争に共通する“戦争の本質”を見出している。
この大佐は、戦争目的を遂行するために狂気に陥った。そして、全くためらうことなくたくさんの人を残虐に殺す。それは一見、目的合理的であるかのように見える。特に、私的利益のために戦争を利用する政治家や官僚的思考を脱しきれない軍幹部など、数多の偽善との対比によってその「正しさ」は際立っているように見える。
しかし、大佐によるそのあまりに残虐で無基準な殺戮行為の奥底には、戦争遂行という目的合理的な思考とは違う、戦場において出現した極限の恐怖やニヒリズムが存在している。つまり、極限の恐怖やニヒリズムが人間(大佐)の原始的本能や自己神格化といった狂気を呼び起こしていたのである。
したがって、その極限状況が出現させる人間の原始的本能から出てくる狂気(的な行動)は、「裁かれるべきではない」と、大佐自身によって主張される。が、しかし、その大佐およびそのような極限状況は、「抹殺されるべきだ」と、大佐自身によって主張されるのである。
そして、「王殺し」の伝説に則った象徴的な描写の中、大佐が殺されることで、映画はエンディングを迎える。
さて、以上3つの作品を簡単に見てきたけれど、改めて「人間の根源的欲望、あるいは反理性主義、の行きつく先」についてのそれぞれの見解をまとめると、ベルは、文化・芸術というカテゴリーの解体、さらには社会の解体へと至るとしている。野田秀樹は、戦争を引き起こすとしている。コッポラも、残虐な行為、あるいは戦争を引き起こすとしている。
これらは新奇な結末というわけではない。
しかし、人々にどこまでリアリティをもって自覚されているか、というと全く心許ない。何せ、自由に好き勝手楽しんでいる人たちに、自省を迫り、(戦争などの)責任を負わせることになるのだから。
とはいえ、問題提起をしているこの3つの作品自身が「人間の根源的欲望・反理性主義」に変わりうるものとして示しているものも、それほど優れたものにはなっていない。というのも、そもそも、これらの作品は「人間の根源的欲望・反理性主義」の優位へと至った原因として、「倫理の欠如」「倫理の崩壊」を想定しているに過ぎないからである。だから、解決策として道徳的な判断や行動を求めてしまっている。
思うに、感情の時代、あるいは個人の自由の時代、における社会の破綻や対立の防御・調停を行おうとしているのは、ジョン・ロールズに代表されるような“正義論の構想”しかない。この壮大な、しかし現代「社会」にとって絶対的に必要不可欠なプロジェクトを試みているのは、政治哲学の領域唯一つであり、そして、(まだ不十分な点は存在しているとは言え)かなり体系的、哲学的に洗練されてもいる。
したがって、ベル、野田秀樹、コッポラが提起した「人間の根源的欲望、あるいは反理性主義、の行きつく先」という現代の重要課題を、問題の提起に止まらず、問題解決へと至る道筋を見出すところまで進めるためには、正義論を取り込んだ意欲的な芸術作品・芸術論の登場が必要なのであ~る。
月並みなことを言うと、いつのまにか3月になっていた。2月はにげる。
そんなわけで、自分で自分を縛るべく、ブログ上ですべきこととその期限を列挙。
・10点満点化されるアイドルブログ・ランキング[2007年1月版]
→3月11日(日)まで
・あさくらはるか17イベント感想
→3月4日(日)まで
・ベル、コッポラ、野田秀樹を絡ませた雑感
→3月7日(水)まで
・もう投票は終わってしまったけど、ヤンジャン制コレ(=ヤング・ジャンプ制服コレクション)について一言
→3月7日(水)まで
・綿矢りさの最新小説の読破&感想
→3月9日(金)まで
以上、3月が春眠暁を覚えず状態にならないように、勢いよく頑張りたい。
もちろん、その他、本の感想などは随時更新していく。
「テクシー」 : (タクシーをもじった俗語) 自動車に乗らずに、てくてく足で歩くこと。 ( 『広辞苑』より )
こんな言葉、初めて聞いた。
塙花澄さんはテクティらしい。 ( 有力な情報筋より )
こんなこと、初めて聞いた。
人生いろいろ。
人生楽ありゃ苦もあるさ。
らしいが、こんな日もある。
人はそれを「二・一六事件」と呼ぶ。
☆ 9時1分。
塙花澄さんのブログにて、「アイドルブログ・ランキング[2006年12月版]」を、取り上げていただきました。
公演中にもかかわらず、本当にありがとうございます。
毎回2位で変わりばえはしませんが、安定して高得点を取ることは他のアイドルブログを見れば分かるとおり、かなり難しいことです。
☆ 23時59分。
塙花澄さんのブログに、自分の手が写ってます!
逆キツネピースをしています。
手と袖だけが写っています。
チラリズム万歳。
ちなみに、普通じゃつまらないと思ってとっさに出たのが、この逆キツネピース。懐かしのエッグポーズを意識したとかしないとか。
☆ 0時55分。
塙花澄さんのブログに、こんなものが載ってます。
安もので、肩身が狭いですが・・・。
とはいえ、冗談を拾っていただけて本当に良かった。
☆ 1時3分。
塙花澄さんのブログに、こんなところが載ってます。
テクティなヲトメ(笑)が、さらにテクティなヲトメになる(笑)のに貢献できて、感無量です。
こんな一日。
まさに、充日(じゅーじつ)。
※ 肝心の舞台の感想は時を改めて書きます。