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石川淳「焼跡のイエス」 (1946年発表/『ちくま日本文学全集011 石川淳』筑摩書房、1991年、所収)
読後感からして何かありそうな気がしたから3回ほど読んでみたけど、やっぱりよく分からない。そんなわけで、とりあえずメモ。
1946年夏、焼け野原になった東京。閉鎖前日を迎えた上野の闇市は、「すでに昨日がなくまた明日もない」動物的な人間たちが集まる混沌の世界である。そこで、混沌の闇市の「賤民仲間」もぎょっとするようなみすぼらしい外見の少年と、インテリの主人公が遭遇する。しかし、堂々と欲望の赴くままに振る舞う少年に、主人公は「イエス」を見る。市場を出た主人公は、太宰春台の墓石に刻まれている服部南郭の銘文を拓本に取るべく谷中へ向かった。その途上、先ほどの少年が後ろから迫ってきていた。そこでの少年は、「イエス」ではなく、ただの野獣であった。そしてついに、少年が後ろから襲い掛かってきた。もみ合いになり、無言の格闘の末、主人公は少年の手首を上から押さえつけることに成功した。しかし、そのとき見下ろした「ウミと泥と汗と垢とによごれゆがん」だ少年の顔は、まさに「イエス」であった。主人公は畏れを感じて手を震わせる。そのすきに、少年はパンと財布を奪って走り去っていった。あくる日、上野に再び行ってみると、官の御触れどおり市場は閉鎖されていた。
という話。果たして、いかに理解すればよいのか?
考えついたものを挙げていってみる。
・混沌とした市場での“神”(=極度に動物的な少年、市場にいるときの主人公)と、理性的な学問での“神”(=服部南郭、墓に行くときの主人公)との闘い。物理的な闘いと、主人公の内での精神的な闘いがある。
・庶民レベルでの“神”と“神”との闘いと、お上レベルでの“神(=君子国、大日本帝国)”と“神(=自由民主主義、連合国)”との闘い。そして、その勝敗のずれ。庶民レベルでは、“混沌”を生きる動物的な少年が理性的な主人公に勝つが、国家レベルでは、連合国が勝ち、“秩序”が取り戻されつつある。小説の最後で、官によって混沌な市場が閉鎖されるのが象徴的。
・終戦という劇的に変化する時代状況を踏まえて、状況によって支配的な“神”が簡単に変わり得ることを象徴的に描いた。
・それまで支配的だった“神”が負け、次の“神”が支配するまでという特異で稀な状況における混沌状態を象徴的に描いた。
個人的には、主人公の心の動きは分からなくもないと思っている。だけど、それがいかなる意味を持っているのかが分からない。考え付くものと言ったら、単純な二項対立による解釈だけである。そこで、とりあえず「終戦直後」というかなり特異な時代状況を持ち出してみる。が、それでも、いまいちしっくりこない。
ちなみに、本多秋五は、『物語 戦後文学史(上)』で、「このくらい批評家泣かせの作品もめずらしい」とした上で、石川淳の「実在ではなく可能(性)を書く」という“文学ならぬ小説”の仕事についての言葉からこの小説を読み解いている。
すなわち、浮浪児の少年は、根源的な苦しみと欲望の体現者であり、極大から極小までの観念の宿主であり、野獣でありイエスでもある、と。
確かに、終戦直後はあらゆる可能性が存在しえた時代だったかもしれない。
しかし、正直、本多秋五の書いていることもよく分からなかった。
まあ、いいか。