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エレノア・コッポラ 『「地獄の黙示録」撮影全記録』 (岡田徹訳/小学館文庫、2002年)
この本はフィリピンの奥地での4年にも及ぶ撮影に同行した監督夫人の日記。撮影の記録だけでなく筆者個人の実存的な悩みも綴られているが、映画の主題や雰囲気に近い精神の内奥の独白にもなっている。
映画の理解にとって重要だと思われる箇所は、以前に取り上げた立花隆の『解読「地獄の黙示録」』の中で大体がすでに引用されている。
その中で特に強調されているのは「矛盾」というもの。そのことが書かれている箇所を少し長くなるが引用しておこう。
「ディズニーランドでは平穏でいながら、戦争の最前線では暴力的になる。状況を厳密に定義できないときに限って、人間の気質である平穏や暴力が、同時に、同じ場所で起こるから厄介だ。現実を考えなくてもよい場所に行くと、人間はいとも簡単にロマンチックになる。同じ人間が、ロマンチックでありながら現実的になるのも厄介なところだ。そして、人間の一番厄介なところは、ひとつの自分のなかに、さまざまに矛盾する面をダイナミックに抱えている点だ。」(pp300-301)
そして、この概念が実際の人物描写では、例えば、以下のようになる。
「カーツ(注:軍の指令に背いて王国のようなものを築き上げた大佐)は明確な意識をもち理性的であると同時に、完全に気が狂っているんだ、と彼(フランシス)は言う」(p325)
ただ、「矛盾」というキーワードだけでこの映画を読み解くことは無理だ。なぜなら、矛盾が存在しているとしても、それが「どのようなことを引き起こすのか?」「どのように乗り越えられるのか?」「どのように葛藤するのか?」「矛盾する両者に共通点は本当にないのか?」といった派生的な問題には応えられないからだ。ただ、もしこの映画が「人間の本質的な矛盾」を描いただけ(だという判断に至る)なら、ストーリーや哲学性に否定的な判断をくださざるを得ないことになる。
また、この本ではフランシス・コッポラが映画を作るときのスタイルについても書かれている。すなわち、撮影に入る前に緻密な脚本を作っておくのではなく、その場その場の状況に合わせて撮影を進めていって、後から必要なコマを編集でつなげていくというものだ。「矛盾」を表現するという点からすると、この方法は適しているように思える。脚本があると、相反する感情を撮ろうとしても、脚本というその奥に存在する共通の前提の存在のために、矛盾の分裂の程度が弱められてしまうことが考えられるからだ。
他にも、映画の理解とは直接的に関係はないが、この本を読んで知った意外な知識もある。それは、コッポラ夫妻が揃って日本好きだということ。特に夫人は、元々エスニック系(?)が好きなようなのだが、旅行で訪ねた京都を大絶賛しているし、家族を置いてまで日本に旅行に来たりしてる。また、監督であるフランシス・コッポラの方も、三島由紀夫の『豊穣の海』を読んだりしている。そして、彼らが日本を好む理由は「西洋のテクノロジーと東洋の伝統が、うまくぶつかり合っている」(p371)というところにあるようだ。これは夫人が語っているものだが、この種のステレオタイプの認識は多くのアメリカ人が持っているものだとよく言われる。これはフランシス・コッポラにも当てはまるように思われる。なぜなら、「地獄の黙示録」では、退廃的なアメリカ兵と強靭な精神を有するベトナム兵という単純な“コントラスト”や、ベトナムの密林の奥へと進むことで増してくる“神秘性”を巧みに利用しているからだ。このことがすぐさま、この映画の否定的な評価には結びつかないと自分は思うが。
さて、最初に書いたようにこの本の要点自体は立花隆の本で指摘されていて知っていたわけだが、実際に読んでみて、「矛盾」のより具体的な内実や、「地獄の黙示録」にはコッポラ自身の苦悩が投影されているということの具体的なイメージも獲得することができたのは収穫だった。次は、コンラッド『闇の奥』だ。これは小説だけに読み解くのに苦労しそうだ。