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 多谷千香子 『「民族浄化」を裁く(岩波新書、2005年)
 
 
 旧ユーゴ戦犯法廷(ICTY)の日本人判事によるボスニア紛争とその戦犯裁判の報告。ボスニア紛争は、セルビア人、ボスニア人、クロアチア人といった複数の民族がとても複雑に入り混じっている地域での独立や主導権を争っての紛争で、「民族浄化」と呼ばれる他民族の虐殺が行われた。後にNATOが武力介入して停戦にこぎ着け、戦犯裁判ではセルビアの指導者ミロシェビッチが起訴され現在も係争中である。

 ボスニア紛争でのNATOの空爆は、湾岸戦争、イラク戦争という比較的是非がはっきりしている問題の中間的な位置にあって、日本の軍事面での国際協力を考える際にもっとも重視されるべき事例だと思う。

 また、停戦後に戦犯を裁く旧ユーゴ戦犯法廷は、ボスニア紛争のためだけに創設された対症療法であるという問題もあるが、国連安保理決議によって設置されている。この点では、未だに問題となる東京裁判や最近本格的に始まったイラクのフセインを裁く裁判、さらには今後の発展が期待される国際刑事裁判所を考えるのに有用である。

 以上二つの点から、ボスニア紛争とその戦犯裁判には以前から興味を持っていた。
 
 
 それで本書だが、ボスニア紛争へ至る経緯から、実際の犯罪の事例・証言、戦犯法廷設立の経緯・正当性、ミロシェビッチの役割、と包括的に説明がなされていてとても勉強になった。

 ただ、一つ不満なのが、「ICTYは反セルビア的か」、「勝者の裁判か」といった項目への応答が簡単に済まされていることである。筆者は、

審理の過程でおのずから明らかになったのは、(中略)一部の政治家や軍人が、自己の権力拡大と蓄財のために、一般市民の恐怖を煽り拡大して「民族浄化」に利用したという構図であり、それは、どの民族でも驚くほど似ているということである。(p167)

 と述べ、起訴された者の数においてセルビア人が圧倒的に多いのは、「セルビア人勢力が圧倒的な軍事力を誇っていたため」(p167)だと考えている。

 しかし、本書でも書かれているようにボスニア人やクロアチア人による虐殺があったのは事実であって、この紛争がそもそもどちらかが一方的に攻め込んだものではなく、さらに、上で引用したように権力者が一般市民の恐怖を煽ったものであるなら、セルビアの大統領ミロシェビッチだけを起訴するのは偏ってないとは言えない。そもそもNATOがセルビアを“悪”として攻撃した時点で、公平性の欠損や「勝者の裁き」という性格を持たざるを得ないのは事実として認めるべきだろう。(この辺の事情については高木徹『ドキュメント戦争広告代理店』(講談社文庫)に詳しい。)

 しかし、どの民族であろうと一般市民は被害者で一部の権力者が加害者であるとしたり、裁判の役割を「歴史の真相を明らかにすること」に求める筆者の立場は、中立公平な裁判官としては採り得る中では最も適切な考えだとも思う。

 ただ、それでも、停戦が実施されて比較的冷静になった後でも、セルビア人の過半数が、裁判を反セルビアに偏ったものだと考え、戦犯の引渡しに反対しているという本書に書かれている事実はもっと傾聴に値すると思うが。

 しかし、本書の記述を読むと、さらに逆接で話をつなげ、筆者の主張を支持することもできる。すなわち、以下の事実である。

マスメディアの宣伝に毒される機会のなかった難民の対応は違っていた。クロアチアから逃れた難民のほとんどはセルビア人であったが、クロアチア人やモスリム人もいないわけではなかった。彼らは、前線の戦いをよそに、民族に関係なく、少ない持ち物を分け合い助け合った。難民は、身の安全に対する恐怖に怯えていたが、元の住居に帰る希望を捨てていなかった。難民が異口同音に訴えたのは、「私たちは、何百年も平和に一緒に住んできたのです。元の家に帰ることができるようにしてください」ということであったという。(p69)

 確かにこの話を聞くと、“権力者”や“政治”が対立と紛争をもたらしたという筆者の主張にも納得ができる。
 
 
 それで、結局のところ、本書を読んでこのボスニア紛争の複雑さを改めて思い知らされたわけである。

 東京裁判を「勝者の裁き」だとして、不当、無効なものだと主張している人なら、この複雑に見えるボスニア紛争の戦犯裁判もセルビア人の立場に立って無効だと主張するところだろう。

 しかし、強制力のある法律もルールもない政治的イシューである戦争である以上「勝者の裁き」もある程度は避けられないと考える自分は、セルビアを“悪”としたNATOおよび国際世論の“政治的判断”ならびに“政治的裁判”も、事態を収拾し(片方だけだとはいえ)“悪”を裁くという目的のためにはやむを得ない「一つの選択」なのではないかと思う。(もちろん、このような選択をするには本来、少しでも存在するその偏りを認識していなければならないが。)
 
 
 しかしいずれにせよ、ボスニアでの戦争犯罪の悲惨さはアウシュビッツと全く変わらない。アウシュビッツから50年経っていたにもかかわらず戦争犯罪への制度・対応もアウシュビッツとほとんど変わっていない。実際に起っている個々の紛争への対応も重要だが、個別に行っていたのでは毎回同じ問題点を抱えることになり、進歩がない。国際刑事裁判所のような一般的なルールの構築の重要性を改めて感じる。

 そして、内戦や民族間紛争などのような複雑な問題への共通ルールがない現状においては、PKOやPKFのようにかなりの程度中立な立場での介入にならない軍事的協力を日本は行うべきではないと考える。一方的な侵攻のような善悪がはっきりした事例でないならば、いくら国連のお墨付きがあっても、片方に加担するような介入は日本が紛争に巻き込まれ、さらには紛争を大きくすることになりかねないからである。

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