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 川本隆史編 『ケアの社会倫理学(有斐閣選書、2005年)
 

「被災地のコミュニティの問題は、日本全体の問題でもある。日本の社会は、人間の「力強さ」や「傷つかない心」を当然のこととしてきた。また、バブル経済の際に、モノやカネだけが幅を利かせる、いささか品のない風潮が全国に蔓延した。人間の心の問題などは省みられなかった。しかし阪神・淡路大震災によって、人工的な都市がいかに脆いものであるかということと同時に、人間とはいかに傷つきやすいものであるかということを私たちは思い知らされた。今後、日本の社会は、この人間の傷つきやすさをどう受け入れていくのだろうか。傷ついた心が心を癒すことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていくきびしい社会を選ぶのか・・・」安克昌『心の傷を癒すということ』(pp4-5)

 
 本書は、そんな精神科医の問題提起に応答した編者が、

スタンダードな生命倫理学の教科書の枠を超えて、医療・看護・介護の営みを「ケア」という観点から統一的かつ批判的に把握し、ケアされる人(患者や高齢者)対ケアする人(医師、看護師、介護者)の関係だけでなく、それを取り巻く家族、地域社会、さらに政治や経済、文化まで視野に収めようとする(p6)

 という企図の下に編んだ論文集である。執筆者には実践家と研究者の両方を含んでいる。
 
 
 個人的におもしろく読んだのは、3章「ケアとしての医療とその倫理」(清水哲郎)、5章「感情労働としてのケア」(武井麻子)、7章「介護の町内化とエロス化を」(三好春樹)、10章「生命倫理教育の反省」(香川知晶)。

 3章「ケアとしての医療とその倫理」では、まず、「ケア」を、援助要求に対して自らを「責任ある」者とみなし、その上で相手の善を目指すコミュニケーション、と捉える。しかし、リベラリズムを基礎にして、「度を越えた他者への害」を禁じるだけの「正義」の倫理では、このようなケアはなされ得ない。そこで筆者は、「援助を必要とする者への応答の奨励」を一般倫理に付加する。そして、その上で、援助する職務を引き受けた医療従事者のケアの倫理として、利害のアセスメントについて述べている。

 今、この3章のまとめを自分の関心に従って、――つまり個人主義的なリベラリズムと非利己的なケアの必要性の衝突という視点から――書いているときに、編者でもある川本隆史の『現代倫理学の冒険』(創文社)に、ケアやそれと近似する章があったのを思い出した。(確認したところ1部5章「ケアと正義」、1部6章「福祉と自由」、2部6章「介護・世話・配慮」あたり。)以前に読んだときはロールズやセン等にばかり関心を払っていてあまり気にかけなかったところで、内容もよく覚えていない。政治哲学系の話は一旦触れると、はまってしまう可能性があるからもっと時間があるときにでも読み返してみよう。
 
 
 さて、本書『ケアの社会倫理学』に戻って、次に5章「感情労働としてのケア」(武井麻子)について。ヒューマン・サービス従事者一般に起こるバーンアウト(燃えつき)を通して、看護師におけるその現実をグロテスクなまでに(ちょっと言いすぎ?)抉り出し検討している。

 この章が本書の中で一番衝撃を受けた。その理由を考えると、一義的には自分の無知によるものだが、より具体的に明らかにすると、一つには、社会問題という観点から医療(医者)や介護が問題になることはあっても看護が問題になることがあまりないために、その現実や問題点を知る機会が少ないことがあると思われる。他にも、子供の頃から経験した看護師が、歯医者、内科、整形外科、耳鼻科など、と、どこにおいてもほとんど全ての人が「優しく」、病院や病気への不安を取り除いてくれる存在だったことも一因としてあると思う。つまり、安易な「白衣の天使」というイメージが現実によっても支えられていたということになる。改めて考えると、その全体的な能力の高さ、対応の良さには驚く。かなりの高率だ。しかし、その背後に以下のような現実があると思うと少し怖くなる・・・。

 本文の内容は以下の通りである。バーンアウトになると、自らヒューマンサービスに携わった人一倍愛他的な人でさえもが、共感を持って接すべきクライエントに対して同情心や痛みを感じられないばかりか、否定的にしか見られなくなってしまう。そんなバーンアウトは患者との過度の同一化等による「共感疲労」によって起こる。

 ところで、看護は“感情労働”だとされる。感情労働とは、職務の内容として感情が大きな位置を占め、働き手自らが適切な感情状態を保ちつつ、クライエントにある特定の感情を引き出すことが要請される労働(p167)のことである。そんな感情労働である看護師の一般的な職業倫理は、「共感的であれ」というものになる。

 しかしその一方で、看護師が患者の前で自分の喜怒哀楽の感情をあらわにすることは許されない。したがって、感情を管理し手段として用いなければならない看護師の具体的な接遇マニュアルは、表情、姿勢、態度、言葉遣い、声の大きさなどに関する「演技指導マニュアル」、あるいは、「感情規則」にならざるを得ない。

 ここで、職業倫理の要請と感情規則(マニュアル)の要請との間で葛藤が生じる。つまり、マニュアル通りに演技しても、それでは患者に対して倫理的に不誠実になってしまうのだ。そこで、看護師は以下のようになる。

ユニフォームを身につける瞬間に、気持ちを切り替え、プライベートな自分とは別の人格の仮面を身につける。(中略)こうして「看護師としての自分」と「本当の自分」がますます解離していくのである。(p169)

 この解離の不健全さがよく表れている状況として「患者の死」が挙げられている。最近では病院で最期を迎える人が増えており、あるいは戦争以上というすさまじい頻度で、医療者は死に直面せざるを得ない。「そのストレスは想像を絶するものだ」という。そのような場での対応としてある病院の接遇マニュアルには以下のように書かれている。

「治療に耐え努力していた患者さんの死は、私たちスタッフにとっても大変悲しいことですが、取り乱したりせず、自分の感情をコントロールし、最後まで処置しましょう」(p173)

 感情規則と職業倫理とを混在させたかなり困難なことを要求している。どちらか片方にちょっと偏っただけでも、仕事ができない人という責めを負うか、患者の死を悲しめない人という罪悪感を感じるか、することになる。

 また、看護師についての今まで述べた問題点が表れている以下のような現状も紹介されている。

看護師の喫煙率や飲酒率の高さはつとに有名だが、そこには「本当の自分」の感覚を求める看護師の姿がある。最近になって看護師の自殺率の高さを示す大掛かりな調査結果が米国と英国で相次いで公表された。(pp174-175)

 
 さて、以上で述べたことの原因を著者は、バーンアウトの原因を共感疲労だとしていることからも推測できるように、「「共感せよ」という看護のイデオロギー」に求めている。そして、以下のようなオルタナティブを提示している。

看護に必要な感情は、そんなに大それたものではなく、ちょっとしたこと、すなわち学生たちのちょっとした「興味」や「好奇心」、「必要とされる」感覚、「必要とされることを自分が必要としている」という自覚、自分もまた「与える人」ではなく「求める人」であるという自覚なのではあるまいか。(p177)

  
 もちろん、ここで著者が描いている問題が多くの看護師にそのまま当てはまるという訳ではないのだろうが、無視し得ない一定数は事実として存在しているのだろう。これを知ったところで何をすべきか全く思いつかないが、「ケアする側のケア」が必要なのは間違いないだろう。看護をはじめとしたヒューマンサービス従事者の精神的な大変さは、その待遇に比べて過度に大きいものだという気がする。
 
 
 さて、5章が随分と長くなってしまったから、7章と10章は簡単に触れるに止めておく。

 7章「介護の町内化とエロス化を」(三好春樹)は、“自立した個人”のような近代的人間観に基づいた専門性が老人には通用しない、という介護の現場が抱える現実(p213)を、主に筆者自身の経験を基に批判する。具体的には、厚労省の進めた「特別養護老人ホームの全室個室化」や「家庭的雰囲気でのケアを売り物にするグループホーム」、あるいは、老人問題を語りたがる評論家やジャーナリストや文化人や市民主義者などをやり玉に上げる。筆者も自覚しているように、筆者が主張している方向性が全ての人にとって望ましいわけではないが、すぐに近代的人間観を基礎に据えて考えてしまいがちな自分にとっては戒めになった。
 
 
 10章「生命倫理教育の反省」(香川知晶)は、アメリカ発祥の生命倫理学の歴史を追いながら、その中のアメリカ的な「自己決定万能主義」のバイアスを暴き出している。そして、他者に危害を及ぼさない限り自由に選択・行動してよいとする「最小限倫理」に疑義を呈する。この種のアメリカン・スタンダード批判は、「アメリカ起源。だからダメ。」というイデオロギッシュなものや文化や風土を過度に強調するものが多いのだが、ここで展開されているのは、アメリカの生命倫理学が形作られる過程を冷静に追いながらその特殊性を描き出すもので、十分読めるし、勉強になる。
 
 
 
 さて、本書は各執筆者がテーマに沿って自由に書いていて、まとまりはないが、その分、様々なケアの現場や現実を知ることができる。確かに、社会“倫理”を考えるには、これら多様な現実を知らなければならない。しかし、その中でいかに共通の“倫理”を模索、構想するか、また、その端緒をどこに見出すか、に関しては、本書はいまいち成功していないように思える。(散々、多様な個別の例に触れては関心していながら言うのもどうなのかという気もするが。)

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