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沢木耕太郎 『テロルの決算』 (文春文庫、1982年)
1960年の浅沼稲次郎暗殺事件で交錯するまでの、17歳の右翼テロリスト・山口二矢と社会党委員長・浅沼稲次郎のそれぞれの人生を追ったルポルタージュ。
事実関係を知るにはいいけれど、「山口二矢がなぜ凶行に及んだのか?」を知るには、彼の人格や考えといった内面への踏み込みが不十分。
山口二矢は以下のように言っている。
「 左翼指導者を倒せば左翼勢力はすぐ阻止できるなどとは考えていませんでしたが、これらの指導者が現在までやってきた罪悪は許すことができなく、一人を倒すことによって今後左翼指導者の行動が制限され、煽動者の甘言によって付和雷同している一般の国民が、一人でも多く覚醒してくれればそれでよいと思いました。 」(p80)
けれど、「文庫版あとがき」で著者自身が書いているように、まだ大人になりきれない17歳のときに人を殺したいと思うことは誰にでもあることである。
そして、「 あの時の浅沼の行為(※右翼の反発を買った発言)は、だから結局、あの時の山口二矢の行為は、国際政治の前にはまったく無効だったとだけはいえる 」(p319)のである。
人を殺したいと思ったとき、人は二つの感情を抱く。殺したいという気持ちと、殺すことにどれだけ意味があるのかという気持ちである。
ましてや政治テロであるなら、この後者の視点が重要になる。
けれど、この本の山口二矢には、このことについて深く考えているところが出てこない。
そして、「浅沼なぞという小物」(by右翼の杉本広義、p292)を殺したところで現実政治は変わらないということは当時でも想像できたはずだ。
本当に山口二矢は天皇のことを思い、天皇を中心とした国家を作りたかったのだろうか?
ただ「嫌い」という私的な(あるいは実存的な)未熟な感情に突き動かされて凶行に及んだようにしか見えない。
ウェーバーのいう「責任政治家」という点からも、ニーチェの「価値転倒」という点からも問題がある。
つまるところ、所詮は右翼も(左翼も)、一個人の実存にかかずらっているセブンティーンにすぎないということなのだろう。
その後の展開を見ると、結局、山口二矢の行動のあるなしにかかわらず、社会党は政権を取ることも、政権を取れるまで自民党に肉薄することもなく、消滅寸前という状態にまでなる。
そして、今この暗殺事件が取り上げられるとしても、それは“劇的な写真・映像を見たい”という人々の「覗き見根性」を満たすためにすぎない。
犯行後、自殺するまで一貫して自らの行為に満足していた山口二矢の一生とは一体何だったのだろうか?
この本を読み終わっての第一の感想は「虚しい」というものであった。